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民主主義再生論(下)

未来第16号に掲載

 21世紀を目前にした昨今の社会はかつてなかった程、そのシステムが複雑化し、知識が専門化されている。
 そして今日の社会の複雑かつ多岐にわたる専門化が、民主主義を減退させているとも言える。民主主義における意思決定は選挙によって試される。
 それは本来、民主主義は有権者が為政者に対して理性的にその政策の是非を問うたものであった。
 かつて有権者は、自らの知識を土台としての政策の是非を理性的に判断できた。
 しかし、政策決定がきわめて専門的知識に属するようになった今日、有権者は個々の政治問題に関して、それを理性的に判断できるだけのマテリアルを、獲得する時間と能力を持ち得ないのである。
 そうなると、事物の判断は、自分が好意を抱いている人の判断をそのまま自分ものとして流用するとか、例えば、自分の尊敬する評論家の意見を鵜呑みにするとか、その時の思いつきで感情的に判断するしかなくなってくる。
 例えば、原子力発電の是非について、それを判断するために必要な、エネルギー需給のあり方や、地球環境との関わりや、その危険性など様々のことを十分に知った上でなければ、しかるべき判断は出来ないものである。しかし、現実にはそうしたことは一般の有権者はもちろんのこと、代議員のバッチをつけた人間ですら十分に知悉しているとは言えない。
 もちろん、こうしたことは昔からあった。とはいえ、専門知識がなくても、一般知識を総動員すれば、辛うじて判断することは出来た。しかし今日の政策の専門化は、かつての比ではない程にディレッタント化している。例えていえば、視力が0.5の人は眼鏡をかけなくてもおぼろげながら交通標識が見えるようなものである。これが視力0.01になると眼鏡をかけなければ、交通標識を発見することは出来ない。今日の政策について今日の有権者は視力0.01くらいの判断しか出来ない。
 しかも、仮にそこで一つの十全なる知識を持って判断しても、十年後にその計画にそって原子力の開発と施設ができあがった時に、同じ判断でありうるのか。また判断した時の環境に大きな変化が生じるのかもしれないのである。
 このことは時代がゆっくり進んでいた50年前100年前ならまだしも、今日のような毎日毎目が進歩と変化の中という世界では、大変大きな判断の誤差を招来することになる。つまり10年後にどうなるかを、まさに的確な動体現力をもって考察し、判断していかなければならない。
 そうした意味において、今日の民主主義における国民の側の判断は、なかなか、理性的・科学的判断を至ることができず、かってに比べ、はるかに情緒的判断にならざるを得ないのである。
 しかし本来、民主主義は科学的分析の興隆を時代的背景としているものであり、その意味で政策に対して国民が理性的判断を下すことを前提としている。
 この意味においても、情緒的判断が主流になりつつある今日の民主主義が、本来制度としてのパワーを失いつつあるのは当然であろう。
 まさに大衆民主主義においては、理性的判断・科学的判断から、情緒的判断へと選挙の時の行動規模が移っていくといえる。但し、私はここで、大衆・一般有権者が、正しい情緒的判断を行いうる環境を作ることこそ、もっとも肝要と考える。 つまり、その時の政策の選択肢において、確かに科学的分析などは十全たる知識を持っていなければなかなか正確にはできないに違いない。
 そこで、むしろその時のマスコミ世論の動向を含めて、それをある種の雰囲気で情緒的に判断するのであるが、それが、あながち的外れの判断ではないというような判断のトレーニングを学校教育などを通してしておくことが重要になるのではないだろうか。このことは、視力が悪いことを超えて、目の見えない生物が、自然界で生きているのと同じである。ある種の第六感的、直感力を養って判断する民主主義が求められるのかもしれない。
 どちらにしても、圧倒的かつ世界的な政治の指導理念であった民主主義が、今日、そのみずみずしいバイタリティーを失いつつあることは、かくの如しである。
 どのようにすれば、再び民主主義にかつての「パワー」がよみがえるのか。もしくは、民主主義は、他の新しい政治制度によって乗越えられなければならないのか?
 こうした判断を、我々は一国一国のレベルではなく、地球規模のレベルで行っていかなければならない時代に到達している。
 その場合に重要なことは、民主主義がそもそも確立された原点に戻って、相対的に最強の組織化された政治グループがどこに存在するのかということであろう。
 民主主義は、もともと、新興ブルジョワジーが、それまでの貴族階級から権力を奪取する過程で生まれてきた。
 そして、その際、組織化されたブルジョワジーは、当時の最大の多数者であり最強の「力」を誇った。
 その後、未組織の大衆に自覚が促され、組織化された労働者が、様々の発展途上国で革命をおこし、社会主義政権をつくることもあった。
 しかし、国民の過半数を超える大衆は、一時的に団結し組織化されることがあっても、その一体感は長続きしなかったといえる。
 労働者という一般庶民が、持続するどころか、一時的に一体化するところまでもいかなかった国もたくさんあった。
 例えば移民の国アメリカでは、全人口の80%をしめる一般勤労者は、その出身国のちがい、肌の色のちがい、生活スタイルのちがい、価値観のちがいで、全く一時的な団結すらなかったといえよう。したがって、アメリカにおいては、一時的にも労働者階級が政治的意味で組織化された多数者としてのコンセンサスを持つことはなかったといえる。
 どちらにしても今、求められるのは、永続することができないまでも、ある程度の継続性をもって、地球レベルで団結する、多数者の存在である。
 それがナポレオンが「力とは、はだかにされた真実である」と語っている政治の根本にある「力」の時代精神的のあらわれとなる。
 繰り返すが民主主義は、ヒューマニズムや平和や平等というアクセサリーを身につけ、その属性に「富と豊かさ」そして「技術開発と人間の可能性の増幅」さらには「フロンティアの空間の存在」を持っていた。それは、前代未聞の、すさまじいばかりの魅力を人類に与えていた。
 しかし、この民主主義の根底にある心臓部に流れているのは「力」であった。その時における組織化された相対的多数者の存在が民主主義の原点にあった。
 この意味において、民主主義は、産業ブルジョワジーのつくった、そこに、原点を持つ政治形態であった。今日の民主主義の危機があるとすれば、この「力」を持つ相対的な、組織化された多数者が、分散をしており、それに代るあたらしい時代の主権者が、次の時代と社会を創る多数者が出現していないことにあろう。
 次の政治形態(それが民主主義をバージョンアップするものか、全くあたらしい形態をとるのかはわからないが)をつくる組織化された相対的多数者はいったい何者であるのかがはっきりしなければ、今の活力のない民主主義がダラダラと続くしか道はない。しかし、古くさくなった制度に、今日の地球規模の危機をのりこえる「火事場の馬鹿力」は残っていないであろう。
 それゆえに、我々はあたらしい、人類60億の進むべき道を意思決定する「組織化された相対的多数者」の出現を待望するのである。
 そして、その中に多くの日本人が含まれるならば、それは日本人として先祖の霊に対して、大変に誇りを感じることとなろう。
 ところで、この組織化された相対的多数者は、どのようなコンセプトによって、一つのまとまったコンセンサスを持つのかが問われる。
 例えば産業ブルジョワジーは、相互にはライバルとして競合しながら、新興勢力としては、従来の社会の支配階級であった貴族や産業資本家に対して、団結して権力の取得を行ったのである。
 その新興勢力におけるとコンセンサスは相互に産業資本をもち、生産を通して富を増大しつつ専ら個人の尊厳、確立をともないながら、一人ひとりの個人が自由に活動できるべきとする、民主主義的発想を最上のものとし、新しい人間観を持つことであった。
 この新興勢力における同志的意義が彼らを団結させ、新しい民主主義という生産確立の原動力となったのである。
 同じように、21世紀を目前にしての相対的多数者は、どのような人間観を持ち、どのようなツールを持ち、どのような共通項を持つのかということが問われるのである。
 今日の時代は、一つ一つの地域の特性が重んじられてはいるものの、世界が政治的・経済的デ・ファクト・スタンダードに統合を進める方向で動いている。そうした中で、あたらしい時代精神を担うパワー・グループは、当然、こうした世界のグローバライゼーションの中で、指導的役割を担うものでなくてはならない。
 世界経済の一体化と度量衡の統一が進む中で、マス・メディアの影響力は人類がかつて体験しなかった程に強力になっている。やがて、世界のマスメディアにおいて、かつて金融資本の寡占化が進んだように、マスコミの寡占化が進むであろう。そして、一人ひとりが地球規模のすべてのことについて、さらに理性的判断ではなく感性的判断をするようになると、ある意味で宗教的な説得力を持つ、大衆が無批判に其の意見を受容するようなマスコミが出現するであろう。組織でもそうであるが、小さい時は、トップと一般構成員の距離感がないが故に、自由な議論が出来るし、小回りも利くものである。しかし、その組織が巨大化すると、議論をしていてもまとまらないので、ちいさなグループに意思決定を「一任」をすることとなる。こうした巨大化した社会を考えても地球規模における民主主義はいかなる形態で成立するのか大いに考えて行かなければならない。
 どちらにしてもマスメディアを支配するものが、経済を運営するグループと手を携えればすべてを実質上支配する時代になるのではないだろうか。
 そうした意味において、このあたらしいグループは、マスメディアをコントロールし、金融資本を動かし、地球規模のグローバル化の力を背景として、出現するであろう。同時に、間近に迫っている、地球規模の環境破壊やエイズの蔓延などに対して、適切に対処する方法論をこのグループは世論に訴えることによって大きな支持を人種や、習慣の壁を超えて世界中から取付けるであろう。
 そして彼らはそのために戦う相手として、それぞれの地域に存在する、辺境的パワーグループや、グローバル化に反対する地域伝統や宗教等を想定して、自己の「希少性」を主張し、より広範な一般民衆の「熱狂を獲得しようとするに違いない。もちろんこうした方向性に新しいパワーグループがあることは誰でも分かるのであるが、その来るべきパワーグループの思想的背景を、明快に今日の思想家が語ってこそ、そのパワーグループは、一つの意識のコンセンサスを獲得していくであろう。ちょうど、近代ヨーロッパの労働者階級が、マルクスやレーニンの著作によって団結したように、または、近代ブルジョアジーがフランスの百科全書派や、コックやスペンサーや、アダム・スミスなどによって、その思想的背景を作られて、ひとつの政治的勢力としての自覚を促されたように、来るべきパワーグループについて思想家が明快にその概念を描ききれるのかが問われているのである。この新しいパワーグループの政治形態として、こんにちの民主主義がバージョンアップした物が認知されるのか、民主主義ではないあたらしい、もっと有権者が共感ができるような政治形態が生まれるのか、こうした議論の中から結論が出されるに違いない。
 ただし、同質の人間を前提として、多数決原理は成立するのであり、異なる環境や民族が参加し、またそれぞれの民族の習慣や考え方が大幅に違う時に、更に、それぞれの民族の出産率、人工膨張率が大幅に違う時に、多数決と言う原理が妥当であるかどうかについては、おおいに疑問がなされるであろう。単純に言えば、中国に8億人の国民がいてアメリカに2億人の国民がいると、中国の国民はアメリカの4倍の意思決定能力が在ることになる。同じ「地球」に住む人間であるから其のひとりひとりは平等であると言う考えも在れば、そうではないという考えもあるだろう。その場合問われるのは意見やその時における生活や貧富の違いがあっても、それを乗越えることの出来る強固な、思想的、生活習慣における一体感が「地球人」一人ひとりに存在するか否か、仮にこの部分が克服されるとしても、更にはそのことを相互に認め合うことが出来るのかということになる。
 こうしたことを含めて、新しいパワーグループと、新しい民主主義は議論されるべきであろう。この議論が世界的規模で、地球的規模で、徹底的に行われることこそが、肝心である。
 そして真の地球時代にふさわしい民主主義がつくられることを願っている。