政治と教育と自信
未来第13号に掲載
教育の原点というと十人いれば十の教育論があるともいえるように、様々な切り口から様々な発想があげられる。 そしてこの小論で私は、日頃から感じている今日の日本の教育において最も求められるものである、権威の存在について言及したい。 聖書の中に、イエスの山上の垂訓というのがある。イエスが多くの信仰するものに対して、大きな感銘を与えていた説法.イエスの革命的な教えのエキスがそこに見られる。 そして私は聖書の中にある「そのときイエスキリストは、律法者のようにではなく権威あるもののように語った」という部分に注目したい。まさに多くの信仰する者は、イエスを信じそして救われようとして山上の垂訓を聞くために集まった。そしてイエスは「権威あるもののように」語ったのである。 何を話したかも重要なポイントだったであろう。実際山上の垂訓には新約聖書で語られる、常識ではなかったが心理ともいえることが数珠つなぎに語られている。しかし、権威あるもののように語っだということが、それにもましして更に重要なことなのである。 よくプラシーボ効果というのが言われる。プラシーボ効果の説明としてしばしばあげられるものに未開の原住民に対しての事例がある。 簡単に言えば、あるところに、未開の原住民と文化を教授している西洋人がいたとする。そして未開の原住民が頭痛がすると言う。それに対して、圧倒的な文化の差異を背景にして、原住民にとっては神とみまごうような権威あるものにみえる西洋人が、バファリンやサリドンというような実際の鎮痛剤ではなく、例えばアメ玉を出すとする。しかし、その原住民が、このアメ玉は頭痛薬と信じて飲むと不思議なこと十中八九の頭痛は治るという。この場合重要なことはこの原住民がそのあめ玉を頭痛薬であると信じることであり、そうした権威をあめ玉を出す人間が持っていることである。この権威によって起こる不思議な現象を心理的にプラシーボ効果という。 イエスの説法の行動には、そもそも理論的に強い説得力があった。しかしそれと同時に、「権威あるもの」のように語ったことが、暗示的意味を含めてプラシーボ効果的なものを信仰するものに与えたのだと思われる。 教育はコミニュケーションである。 このコミニュケーションは、権威あるものとして話されるかいなかによって大いに伝播力を異にするものである。 ある動物園での話であるが、チンパンジーの養育係は、この世で一番偉い人でなければならないという話をテレビで放送していた。 そのチンパンジーの前では、そこの動物園の園長でさえ、その飼育係に下手に出なけれぱならないのである。つまりチンパンジーにとって飼育係はもっとも権威ある存在である。 そのことでその飼育係は、チンパンジーに対して絶対の立場とリーダーシップと感化力とを持つという。 子供の教育においても同様に肝心なことは、この権威である。 その教育効果を高めるためにも「権威あるもの」が教育に失われたとすれば、それが教育で、本来期待されている伝播力や感化する力を大幅に欠落してしまうことになるであろう。 ところで実際の教育の現場を見たときにまさにこの権威こそが、今もっとも失われているのである。教育における権威の復活こそ、教育におけるプラシーボ効果の復活であり、今日の教育の荒廃をなくすための最大のポイントと考えられる。そして教育における権威の復活はまず、学校における教員の権威の確立から始まる。そして学校の長である学校長の権威を高くすることこそ、そのもっとも重要なことであろう。子供が一般の教員に権威を感じ、更に校長が一般の教員に尊敬の念を感じさせることが肝心であろう。 そうしたヒエラルヒーの中においてはじめて「権威ある者」が教育に生まれ、教育のプラシーボ効果が出てくるのである。そこに始めて教育の論理的効果と暗示的効果と全人格育成の可能性が出てくるのである。この意味において私は、校長の力を強めることこそ、教育をよくするための第一法則と考える。この点がしっかりすれば、後は自然の流れがでてくると考える。 ゆえに私は、あえて学校の現場における人事権を校長に与えるべきと考える。