グローバルスタンダードと知的帝国主義
未来第8号掲載
今日の社会経済がどこに矛盾をきたすかと言えば、国内ルールと国際ルールとの距離こそがその発火点と言える。国内的に通用したことが、国際的には通用しないということが多々生じるからである。それは、別の表現を使えば国内ルールで正しいとされていたことが、国際ルールでは正しくないとされる−と言いかえることができるのである。 例えば、日本国内では車は左車線を走ることとなる。しかし、逆にアメリカのハイウェイを日本人ドライバーが日本でそうであるが如く左車線を走っていれば、これまた交通違反のペナルティーをとられることとなる。 ここで重要なことは、どちらが真理から見て正しいか否かを問うことではなく、どちらが主流であるかということである。 例えば、コンピューター言語にしても、ビデオのVHSとβにしても、その主流争い、標準争いに破れたところは、まさに経済的・社会的主流となれず、敗北にふさわしい末路が待っているのである。 世界が一つの経済を目指しているときに、また、世界を駆けめぐるおカネや情報が、国境を越えて駆けめぐる時代を迎えるときに、かつて中国の始皇帝が「度量衡」の統一をしたようにグローバルスタンダードが決まるのは当然のことである。 例えば、インターネットによる課金システムと収金システムはどうなるのかについても、結果的には世界共有共通のグローバルスタンダードができるに相違ない。そのときに、そのシステムを提供するところが、言葉は悪いが、胴元になる。この胴元が政策として世界共通の電子課金、及び収金メカニズムで巨利を受けることになる。 そうした点から考えると、多くの分野でグローバルスタンダードが求められてくる。そして、このグローバルスタンダードが決定するプロセスは、唯一「力」関係によって決まる。その「力」とは経済的分野と政治的分野である。ここに21世紀に至る政治のポイントがあると考える。いかにして政治が、自国のシステムをグローバルスタンダードとする為に経済界と連携をして、汗を流せるかがポイントである。 1世紀前は、帝国主義と植民地政策によって政治は、経済と連携して「力」を担ってきた。言葉をかえて言うと、今日はグローバルスタンダードをめぐって、政治は経済と連携して、「力」を担うのである。 こうした客観状勢の中で、次に私が銘記しておきたいことは福祉のあり方についてである。バラマキ福祉というコトバがかっては、しばしば使われていた。 しかし、このバラマキ福祉というコトバは国内において、福祉について少し過剰すぎる部分に対して使われた用語であり、今日の切りつめている状態での福祉施策については、全くバラマキというコトバは使われなくなっている。私も従来との比較に立った国内の発想からのみゆけば、そういうことになるだろうと考える。 しかし、今や世界は一国経済のように度量衡が統一され、また香港発の株安が全世界を一巡するような相互関係体質になっている。 そこで考えなければいけないことは、国内的に見て妥当か否かということではなく、国際的に見て妥当か否かということが問われるのである。もしくは国際的に見てその福祉が国民経済に占める率が妥当か否かである。少なくとも費用の部分での比較において国際水準よりもむしろ軽いレベルにあることは、国が繁栄する為の前提となると考える。その為には、より「自立」された福祉、また「効率」のよい福祉が求められるであろう。 むしろ国内的に見れば、かってに比較して、現在の福祉水準は、随分と下がっている。これ以上福祉にかける費用を減らしてはいけない、という議論が一方において沸き上がっている現状である。更には今後の高齢化社会に向かって、さらに福祉費用をあげるべきである、という国内的に見る限りの正論もある。したがって、国内のみで物事を判断しようとすれば、現在の福祉水準は、むしろ費用をかけすぎていなさすぎる位であるということになるという考え方もある。 しかし、一転して国際的水準で見るとどうなるのかということになる。少なくとも国民の所得のうち、50%近くを社会福祉費用として徴収する状態は、日本の経済が国際的競争に対抗できるかが問われるのである。かつて“ゆりかごから墓場まで"という高度福祉が見られたイギリスにおいてもサッチャー以来その見直しが進んで、福祉の贅肉の部分のそぎ落としが行われた。スウェーデン型福祉というものも、そのありさまを大きく変えてきている。これらの福祉は現在の如き国際大競争時代に至る前の段階であったにもかかわらず、その方向転換を行ってきたのである。その理由は、こうして高税率による高福祉は国内経済のみの是非という観点からいっても、若年層の勤労意欲と社会的活力を喪しめるからである。 私が強調したいのは、現在の国際大競争社会ではない、それぞれの一国経済でものの是非が問われる時代においても、イギリスや北欧に見られる国民所得の50%を越えるような福祉負担は否定されてきたのである。まして、いわんや「大国際競争社会到来」においては、こうした高福祉の為に税金が極めて高く使われる状態は、国際競争の中における神の手によって一層強く否定されることになるのは当然であろう。 21世紀にむかって、より一層国際社会が競合し、世界のカネとヒトとモノと情報が税金の安い場所を目指して移動する中において、国内的な要請がどうであるかということより、国際的水準から見て競争力のある福祉システムをつくることが重要である。 そこで問われるのは、他の国際的競争者との比較において、福祉の効率性はいいか?福祉の負担は低いか?サービスは良好か?ということである。それゆえに、今後は、就業についてもっと高齢者にも働く機会を与えることが必要であろうし、また高齢者を対象にした労働市場の育成も必要であろう。勿論勤労者サイドにおいて、人生1世紀時代を迎え、80歳位までは自分の手で働けるように自らの能力を鍛錬することも必要になるであろう。老人というコンセプトを変えて、高齢者の意識を改革することが、自立する福祉とともに大きなポイントとなるであろう。ドイツの詩人ゲーテは80歳でなおも恋愛をしたというが、そうした瑞々しさを80歳になっても持ちうるように、生涯青春、生涯学習をすることを1つの常識として全ての動労者が共有するようにしていかなければならない。それ故に私は、真の福祉改革は教育の中にあり一というように考えている。 しかし現実には、そうした世界をつくり上げるには、まだまだ時間がかかるとするならば、そこに暫定的・極めて戦術的であるが、国内にそうした福祉を全く考えない純経済原則で働く無関税地域のようなものを考えることも有効であろう。その広さは今の東京都レベルの地方自治体一個分でよいであろう。そこでは、お年寄りに対する福祉は一切ない。あくまでも元気なお年寄りだけが集まればよい。という極めてドライな発想である。つまり社会福祉にかかる費用を他の国際都市よりも低くした地方自治体=国際都市特区を設定するのである。 今の税制度であれば法人税などは地方自治体の財源になるので海外の会社はそこでは日本の高齢者福祉と全く離れて企業経済に専念できる。そうしたことをしながら、都市が消費税などを海外と同じ水準にしてその税収を高齢者福祉にあてるような仕組みが考えられるであろう。 この場合、とにかく東京なりの特区が、都市間競争に勝って世界三大国際金融センターとなれば、自然と消費税の収入等が増大して、当初、削った福祉に関する費用分位を拠出することが可能となるに違いない。 ともあれ、国際第競争時代には、まずその国際競争の中での尺度が国際経済を司る神の手によって調整され、全ての分野で問われるのであり・国内的な課題の整合性は、そののちの調整によってなされることが、不可欠であること。そして、そのことも含めて政治は経済界と協調して、このグローバルスタンダードを自国の制度やシステムにおいて確立すべく、今渾身の努力をすることが求められる。