岐路に立つ『二十世紀民主主義』 第一編「二十世紀民主主義」の強みと属性
未来第11号に掲載
そもそも民主主義を否定することは、今日の世界において許されない状況である。それは、丁度中世のヨーロッパにおいてキリスト教とスコラ哲学を批判することは、許されなかったのと同じようである。 いわゆるベルリンの壁の崩壊によって共産主義の国々も自主廃業をして、次々と民主主義国家となるに至って、民主主義という古代ギリシャのアテナイに淵源を持つ政治体制は、ほぼ全世界を席巻している。 ところで、なぜ民主主義が全世界を席巻しえたかについては様々な諸説が言われている。私は、おそらく次のこの二つのことがその主要な理由であると考える。 すなわち、いかなる国においても社会においても、もっとも強烈な政治パワーを持つのは大衆であり、その大衆こそ主権者という方程式は、他のいかなる方程式よりも強固なものであったということである。今日の民主主義が強いのは、それが常に大衆とともにある限りであり、逆にあのナチズムをつくった非民主主義の権化であるヒトラーですら、自分の成功は常に大衆とともにあったからだとさえ言っているのである。 およそ、一人より三人の方が強い。三人より百人のほうが強い。これは、それぞれが特殊な武器を持たない自然の状態であれば当然のことである。それゆえ世の中で一番強いのは大衆であり多数である。 勿論例外はあろう。例えば、百人の群衆のリーダーが、その戦略の卓抜性の故に二百人の群衆に勝つことはあるであろう。しかし、逆にリーダーの資質が似たりよったりであり、そして百人対二百人の闘いであれば、二百人が勝つのである。この極めて当然な、自然な科学的なパワーポリテックスこそ民主主義の根本になるであろう。 極論すれば民主主義の根本は、多数者の考えることに間違いが無いという確信よりも、この強さこそが民主主義的正義の裏付けである。多数者の意見がより強固な政治的パワーを持っているということになるのだろう。つまり最も確実で普遍性があって、強者である大衆にその基盤を置くということで民主主義は他のいかなる政治制度よりも自然であり、安定性を持っているのである。しかし、こうした民主主義が大衆とともにあるという強み以上に、近代社会において民主主義が普及した理由は民主主義体制と共にあった属性によってである。 その属性とは、一体何であろうか。イデオロギー的に言えば、今日の民主主義の属性は平等の発想であったり、また、社会福祉の発想であったり、普通教育の発想であったり、男女同権の発想であったりする。しかし、何よりも今日民主主義をして、かつての中世のヨーロッパキリスト教の如く絶対的な正義とするに至った最強の属性は明らかにそれが、「富」とともにあったという一点にある。民主主義が「富」と同義語であったといえる。それは、民主主義というイデオロギーがニュートン物理学や、近代の科学という技術や文明をその属性として、持っていたということと符号する。 かつて、キリスト教というイデオロギーの属性としてルネサンス以降の富というものがあって、この教えは野蛮をキリスト教文化と富によって席巻しつつ世界に広まった。日本における仏教も同様に仏教芸術や、大伽藍といった目を見張る文化や富を属性とすることで一気に拡大した。同じように、民主主義もその科学的実証性と技術と富を属性として世界を席巻したといえる。 実際に、第二次世界大戦直後における世界の富の偏在を見る限り、「富める国」で民主主義ではない国を見つけ出すことは、殆ど不可能に近い。例外的に石油埋蔵量が世界に冠でる国で、その結果として「豊かな」クウエートなどの国もある。また、同じような意味でイラクもイランも非民主主義の富国であった。 しかし、こうした国は、むしろ民主主義であることが、国際社会の中での発言権を高めるために有効であるということで、「民主主義」を標榜しているのである。また、世界の最大最強の国家であり、パックスアメリカーナの主宰国であるアメリカが、民主主義という体制を世界に啓蒙したことも事実である。その意味ではアメリカの果たした役割は古代ローマ帝国が、地中海を中心にしたパックスロマーナを構築し、ローマの都市のあり方とローマのものの考え方とローマの市民権を地中海世界に普遍化させていったのと同じような意味を持つ。 しかし、この場合古代ローマは権力によって諸外国をローマ的なるものにねじ伏せていく要素が強かった。これに対して、アメリカは、その国の時つ燦然と輝く「富」によって相手を圧倒し、民主主義に傾倒させていった。それは「北風と太陽」の寓話に似ているかもしれない。どちらにしても、民主主義はその属性である「富」によって、一気に世界に拡大したといえよう。また、世界の国は「富」を求めて民主主義に憧れたといえよう。 なお、更に私は21世紀民主主義の属性の一つとして、マスコミの影響力の増大を述べておきたい。今日の民主主義は古代ギリシャの直接民主主義とは異なり、完全な間接民主主義である。そして、この場合その間接の部分においてマスコミの影響力というのが、一段と強くなるのは当然である。 例えば、中世キリスト教社会において世俗的な部分の権力は封建貴族が担っていたが、権威は教会が担っていた。そして、ときとしてこの両者がぶつかったときには教 皇と教会が勝利をしたことは歴史で知られることになる。同様に今日の民主主義においては、まさに世俗的権力な行政が担っていたが権威はむしろ、マスコミに対しては非常に弱い存在である。そして、マスコミが造り出す世論はまさにそこにある「世論」ではなく、マスコミが創り出す世論であることが多い。その世論に対しては誰もが責任をとらない。世論の無過失性を信じることが、これまた無条件の信仰のようにして存在する。 こうして大衆を基盤としている物理的強さと科学的技術による富の創出を強みと属性として、民主主義は20世紀後半の世界においては批判をされることのない無条件の信仰となった。冒頭に記したように中世のヨーロッパにおけるキリスト教に匹敵する以上のものとなったといえる。それと同時に民主主義とひとつのパッケージとなっている様々な社会通念は正義と見なされ、それにそぐわぬものは魔女裁判の如き裁きを受けることもあった。 しかし、いかなる社会制度にも永遠というものはない。民主主義がその信仰の頂点を極めたシンボリックな事件とも言える、ベルリンの壁の崩壊が同時に民主主義の落日の始まりを告げるかもしれない。少なくとも今日の民主主義が正常に機能しながら、遂に地球上の人類が滅びるという可能性は、例えば、環境問題などを考えれば十分にあるであろう。また、民主主義の持つマスコミのある種の優等生的側面が偏重されると、政府行政における最低限必要な野蛮性が失われ、結果としてアウトローの世界がその内部において増幅していくことも予想される。その意味に若いては、今日、この民主主義にある危機が訪れている。その危機とは一体何なのか、何ゆえに今日の民主主義を襲っているのかを次号に述べていきたい。