今日、我が国においては、国家唯物論的発想が蔓延している。つまり、国家は国民に対して経済的便宜的存在でのみあるという発想である。そして利便性の高い社会を作ることこそ国家の役割であるということにその主張が象徴される。 しかし、我々が国家に求めるものは、単なる利便性だけでいいのであろうか。 ここで、国家の前の段階として個人が係る家族というものを考える。 家族が、人間が生きていくうえで基本的な単位であることは基本的なことである。社会福祉が整備されていない状態であれば、両親のいない子供は生きていけない。母親の母乳もなく、生まれたばかりの赤ちゃんは、奇跡的なことでもない限り、生きていけない。 つまり、生きていくという最小限の利便性を家族は持つのである。 しかし、家族が利便性だけでまとまっていくであろうか。確かに互いが共同して生きていくメリットは互いに享受している。 しかし、その前提条件として、男女が結び付く上での愛情というものがあり、また子供が生まれるとその子供に対する愛情が基本的に発生する。 その意味では、利便性とメリットを求める原点には、生物の本能の観点からは、愛情があるのかもしれない。 そして家族が共同生活を営む上で、家族の持つカラーというものが生まれる。家族にそれぞれ特有の生活習慣や文化や価値観である。 こうしたことを通して、家族は個人に代わる一つの有機的主体となりうる。むしろ家族があって、そこから個人という主体が発生したと考えるほうが適切かもしれない。 どちらにしても、家族が、人間個人に匹敵する強い主体である。 そして、「家族を守るためためなら自身は死ねる」ということは多くの人間の理解を得ることのできる発言である。 つまり、家族はその家族に含まれる人間にとって、自分にとっての主体となるがゆえに、第一義的には、本来は守るべき自分の命を捨てて家族を守ることが自分の維持にとって必要なこととなるのである。 本来は、主体はその主体の維持を自己目的の中心に考えて行動する。自己犠牲という言葉は、その自分という個体の生命よりも、尊いものをほかに見出すということではなく、自分が大きな主体の一部であり、その大きな主体を守るという観点から、自分の命を犠牲にしても、自分の属する主体を守るという行為なのである。 多くの人間にとって、特に家族を守るために死ぬことを当然と考えられるのは、家族は、彼らにとってその主体であり、個人よりも家族こそ主体的存在、と考えられるからである。彼が家族という主体から生まれてきたものであるからだ。 家族が、何かを行動するときの主体であり、家族が、何かを決断する時の主体であり、家族が一つの有機的存在であり、それゆえに一つの伝統と文化と生活の共通のイメージを持つ、基本的単位としての家族が主体的に存在するからである。 このことを逆説的にいうならば、個人が家族をその起源として持つならば、その家族はその家族を大きく包含する人間集団をその起源として持つ。その家族の父親のかかわる、父親を生み出した人間の集団と先祖の数はまさにその地域の人間集団全体に及ぶし、母親にかかわるその起源も空間的にも時間的にもその人間集団に大きく影響を受け、そこに起源を持つからである。 つまり、個人はその家族に起源をもち、その家族はその家族の属する集団に起源を持つ。したがって、家族のために死ぬということは、より希薄なものとなりながらも、その属する人間集団のために死ぬということと結びつく。 なぜならば、その人間集団こそ、ある個人にとっての原点であり創造主であるからだ。 そして、こうした有機的主体としての家族というものを考えると、家族全体の喜びというものがある。家族全体の悲しみというものがある。 しかも、個人が感じる感情とは、こうした人間関係の中で発生するものであることを考えると、家族全体で共有する感情のほうが、 個人が、一人で感じる感情よりも激烈な場合がある。 例えば、サッカーの試合を、自宅において一人で見るよりは、どこかの会場に集まって、大勢で応援しているほうが盛り上がるのと同じである。 感情の質によって異なるが、人間が集団になった時にもたらされる感情の起伏というものは、個人における感情の起伏とは異なった、圧倒的なものとなる。 しかも、本来、人間は集団の中にあって生活してきたものであるから、こうした圧倒的感情こそ、人間の行動や、衝動の強い原点にあったのではないかと考えられる。 ただし、サッカーの試合を大勢で見て感激するのも、野球の応援を烈しく何人かで行って感激するのも、それはそのグループにおける、目的や、趣味や、支援するものが共有されていることが前提である。 つまり、こうした共通の価値観や、方向性があってこそ、強い一体感は生まれるのである。 こうした一体感に伴うイメージが、さらに広がって都市国家となった時に、古代ギリシャの政治家ペリクレスが言うように、アテナイの市民は、自分の家のことを考えるのと同じような一体感を持って、国家のことを考える。自分の家族を心配するように国家のことを心配する。 自分の家族を愛するように国家のことを愛する。同じように悩み、悲しみ、喜ぶという状態になる。プラトンが、国家は大文字の個人だといったのはこの意味である。 このことについて、日常の人間の交流という観点から考える。人間のつきあいにおいて、大きく三つの基本的要素があると考える。それは理念、メリット、浪花節の3要素である。 例えば、ある人間と人間が、お互いの持つ宗教的理念、もしくは政治的理念などで付き合い始めるということは多い。少し議論を広げて、同じ科学的探究心から付き合いを始める場合もあるであろう。しかし、そうしているうちに、同じ問題で悩み、もしくは時間を過ごすうちに、お互いの一体感が芽生えてくることはごくごく自然なことである。また、そうした中で、お互いに融通をつけてメリットを共有することも自然に出てくるであろう。 また、地縁、血縁などを含めて一緒のグループであるという一体感だけでスタートした場合にも、やがてそれだけにとどまらずに、メリットも求められるであろう。大学やクラスメートなどの偶然学校側によって、区切られ構成された集団でも、そこに一つの特色が生まれてくる。クラスごとに違う個性が生まれてくる。 この個性こそが、いわば一つの理念のようなものである。そして、当然そこに一体感が生まれてくる。 初めは、まさにメリットだけで付き合い始めた集団が、メリットだけでどこまでも行くかといえば、そうではない。会社に、給与を獲得するために入った新入社員も、やがて会社のカラーに染まっていくし、会社に対する一体感を持つものである。 そして重要なことは、こうした要素が複雑に絡み合いながら、その人間集団の活力を充実させているということである。 人間集団のテンションの高さは、こうした要素をうまくバランスを取りながら活用するところにある。 利便性やメリットだけで国家を考えるということは、国家を唯物的存在として理解していることにつながる。そして、そのことは国家とその構成員である国民の充実したエネルギーを発揚することにはつながらないといえる。 「衣食足りて礼節を知る」ということわざがある。この意味することを真に理解することは重要である。つまり、物的な豊かさや充足は精神的充足を導くためにあるということである。 経済活動とそれに付随する人間社会のすべての動きは、精神的テンションを高くするためにあるということである。 より利便性の高い生活をすることも、贅沢な生活をすることも、きれいな服を着ることも、うまいものを食べて多くの金を支払うのも、そのことを味わう人間の精神がそれによって満足し、より幸せを感じることに貢献するための手法である。 もし、人間ではないほかの生物に、例えば、ナメクジに豪華な車を提供しても、彼は何も感じないであろう。うまいものを食べて、多くの金を支払うのも、それを食べた時の精神の充足がその価格に相当すると考えるからである。ブランド物の高い商品を買うことも、そのものを買うことが、精神の充足に寄与するからである。 そして、精神の充足、満足を物質的なものからではなく、行動や、表彰といったものから実現することができる。例えば、日本であれば、天皇陛下が主催する園遊会に参加をする選ばれた人間となることは、その限られた宴席に参加をするということ自体が参加する側の、精神の充足を促すものである。 しかし、すべての日本人にとってそれが価値あるものかはわからない。そのことに価値を感じる日本人にとって価値あることなのである。 それは、例えば、フォアグラが高価な食べ物だといって、フォアグラが嫌いな人間にとっては何の価値もないことと同じである。 勿論、交換価値があるがゆえに、フォアグラの嫌いな人間も、フォアグラを贈り物でもらって喜ぶかもしれない。しかしそれは彼がそれを食べて精神的に充足するのではなく、それをほかの人間に渡して喜んでもらえるがゆえに価値を感じるのである。 この点では、交換できない精神的なものは、より個別的価値に限定される。 重要なことは、精神の充足は物質によって、また精神そのものに直接影響を与えるものによって満たされるということである。 繰り返すまでもなく、その精神の充足を考えるときに、名誉や誇りというものは重要である。 そして、こうしたモノそのものの利便性と、ブランド的な名誉心に訴える部分が、物の売買でも渾然一体となる。 ベンツであるとか、トヨタの最高級車に乗るときには、その車の乗り心地、利便性は重要である。しかしその車に乗っているというプライドも重要である。その利便性や乗り心地にプラスしてそのプライドに値段がつくのである。 高級なものは、それを食べた時の精神の充足がその価格に相当すると考えるからである。しかし、周りの人間が、それを食べている姿を見て、高級なものを食べていると感心するならば、そのものの味がその人間にとって舌鼓を打つに値するほどおいしいかどうかを別にして、虚栄心、名誉心を充実させるものとなる。 ブランド物の高い商品を買うこともそのものを買うことが、その物自体の価値を超えて、精神の充足に寄与するからである。 そうであるならば、自分の国家がブランド品のような国家であることこそ、最高の虚栄心と精神的充足を意味する。 ベンツの利便性と同時にベンツのブランド性こそベンツに乗る醍醐味であるとすれば、あるいは、フォアグラのおいしさもさることながら、それを食べるブランド性がその喜びの醍醐味であるとすれば、自分自身が社会に生きて、その国家が世界最高の国家としての名誉を持てるブランド性こそが、最高のブランドではないか。 さても、その精神の充足を考えるときに、名誉や誇りというものは重要である。 そうした充足を目指すことが個人においても国家においても最後の目標である。 その国家のブランド性の中には国家の強さというものがある。その強さとはほかの国家との比較から生まれる。また、国家の便益という観点から、より高い効率性が求められ、無駄の排除が求められる。無駄ということも、無駄そのものが純粋に存在するということは考えられない。無駄が有益なものと渾然一体となって存在している。その時には、無駄の排除は一部有益なものの排除も伴うこととなる。 さらに、利便性の向上ということから、効率の悪い仕事は、特にほかの国家との競争において改善を求められる。国家の無駄が一番省かれるためには、戦争が最も適切であるという議論すらある。 同時に戦争の時には、戦艦や戦車の製造をするのでもスピード感が求められる。一刻を争って戦う時には、スピードということも重要となる。 意思決定において、結果同じ判断が下されたとしても、そのことにいたるプロセスが、時間を多大に浪費された時には、その意思決定そのものの「遅きに失した」ということもあるであろう。 また、一度為された意思決定が、別の意思決定に変更されることによって、敗北をすることもある。 戦争においては、勝つか負けるかで、明快に結果が出るので、こうした効率や、正しさが抽象的ではなく国民に分かる。 つまり、何かの改革を組織でしようとする場合には、戦争状態を前提に考えれば、何が正しくて何が間違っているかが判然とする。 国家の利便性を考えるときにはこうした厳しい観点から考えなければ結論はあいまいとなる。 本来、国家の利便性は、国家の個人に対する関わりから出てくる概念ではなく、国家対国家の戦いの中から生まれる概念である。その国家対国家の観点から、国家のブランドというものが生まれる。 既に述べたように、物質も、行動も、有形のものも無形のものも、それは人間のテンションを高めるためのものであると書いた。 衣食足りて礼節を知るということである。 そこで、人間の活動をより精神的な分野から考える。その時に、 テンションの高さをどう維持するかが重要となる。 今日、日本人のテンションは低いといわれる。 私が会ったある外国人記者は、韓国人と日本人でその経済の活力は、韓国のほうが上であるとフランスあたりは考えているといった。日本の経済の活力が失われているのは、少子化が原因であるという議論をしているときである。彼は、韓国のほうが日本よりも、少子化は激しいが、フランスでは韓国の経済については心配していないという。それは韓国にはアニマルマインドという気迫が存在しているからである。日本にはそれが欠如しているというのである。 また、あるフランスの投資会社の社長と話をした。日本に再び活力を取り戻すためには、東京がアジア最大のハブ都市になるべきだと私が言った。彼は、それはその通りだといった。 私は、今日の日本において、かつての繁栄が失われている。かつてはアジア最大の経済拠点であり、金融センターであった東京が落ち込んでいる。むしろアジアにおける東京なり日本の立場がアジアの拠点であるよりも、アジア拠点の下位に属する出先支店のような状況になりつつある。 かつてはアジアにおける拠点は東京にあり、そこからアジアの各国への支店が派遣されていた。今やアジアの拠点が上海や香港や、シンガポールに移りつつある。 したがって目先を考えれば世界的多国籍企業のアジア拠点を再び東京に誘致することが経済の活性化の条件となる。そのためには、24時間ハブ空港を作ることや、ほかの国際的機能を充実させることがある。と私は語ったのである。 また、一人あたりのオフィス床面積を向上させることも必要であろうし、さらには規制緩和を推進し、また税制的控除策などを行い、世界の企業が活動をしやすくすることも必要である。また世界的エリートサラリーマンが住みやすい住環境、食事を摂れる環境なども必要である。と主張したのである。 私のそれらの意見に対して、彼はそれはいずれも大切なことであると答えた。 しかし、それだけでは不十分であると彼は語った。そうした都市の利便性、パワーアップと同時に、そこに働く日本人、特にエリート層に属する日本人のテンションを高くすることが必要であると彼は主張したのである。 そして、彼は具体的にこのような話をした。 ここに中国の青年を10人、日本の青年を10人呼んできてアンケートをする。自分は、10年後に何になっているのかということを聞くのである。そうすると、中国青年は全員が、先々自分は大会社の社長になると断言をしたり、大病院の院長になると断言する。これに対して、日本の青年は、失業しているかもしれませんとか病気になっているかもしれないとか離婚しているかもしれないなどという悲観的なことを言う。 つまりテンションが低いのである。 外国人実業家である彼は、もちろん利便性のいい場所で働きたいし環境のいい場所がいいという。しかしそれ以上に共に働く現地の人がアメリカンドリームを持ってテンションが高い人間と共同して働くほうが楽しいという。少なくとも悲観的なものの考え方をする人間と仕事をすると自分も運が失われるような気持になるという。これは当然のことであろう。 そしてこのテンションは、名誉の感情や、世界に対する国家の位置というものと無関係ではない。 繰り返すが、かつてプラトンは、その著作「国家論」の中で、「国家は大文字の個人である」といった。国家とそこに居住する人間の間には関係がある。国家の持つ勇気とそこに住む人間の勇気は関連性がある。国家が勇気を持てば、そこに住む人間は勇気を持つし、そこに住む人間が勇気を持てば国家は勇気を持つ。 そのアナロジーをプラトンは語ったのである。勇気ではないが、「自信」ということではそうしたアナロジーは成立するのではないか。事実日本の青年はかねてより自分の国家の将来に自信がないという。そのことを証明するデータはあまた存在する。5年に一回行われる青少年の意識調査で、大体いつもこういう結果が出る。自分の将来に自信があるかという問いに対して、中国人は15%の青年が自信を持てないという。アメリカ人は40%の青年が自信を持っていないという。アメリカは、貧富の差もあり、麻薬もあり、社会の矛盾も多民族国家で大きく、そうした中で40%というのは、かなり頑張っている社会といえるであろう。中国は、今発展に次ぐ発展で、自信を国家自体も深めておりそこの青年が、ほとんど自信を持っているということは、理解できる。しかしこれだけ豊かな社会である我が国家での日本人の青年が75%もの高い確率で自信がないというのは異常である。 なぜ自信がないのか。それは、国家が自信を持って行動をしないからである。 少し事例は異なるが、かつてトルコに対して、アメリカの議会がアルメニア人虐殺非難決議を挙げたことがある。百年以上前の事実がそうであったか違うのか疑われる事件である。このアメリカの非難決議がトルコに向けられた時に、トルコの反応はすさまじかった。国民、マスコミ、政治家が一体となってアメリカに対して非難決議反対の大キャンペーンを展開したのである。そしてそういう決議をアメリカがあげるならば、以降トルコの基地をアメリカ軍に使用させないという決議まで上げたのである。これにはさすがのアメリカも閉口した。 これに比較して、日本に対する慰安婦非難決議は全く逆であったことはご承知のとおりである。日本のマスコミを含め、アメリカの決議を非難するどころか譲歩すべしというような論調が伝わった。 この慰安婦問題ほど事実が不透明なものはない。少なくとも日本固有の必要悪ではなく、各国が同様のことを行っていたといえるものである。それにもかかわらず日本だけが謝り続けているのである。 同様な問題が、ほかの国家であってもそれは無視するか、反論するかで、国家の名誉にかかわることとして謝罪することはないに違いない。アイリスチャンの「レイプオブ南京」の表紙の後に引用されている写真がいかにインチキであるかは誰もが知っている話である。 しかし、国家が自分は悪いことをしたと公式に謝罪することは、結果としてその国民の自信を失うことにつながる。 こうした日本の外交上の対応は、結果として最も重要な多くの平均的日本人の気概と自信を深く傷つけることにつながっている。 挙句の果てに日本の政治家の少なからずが、これ以上日本は活力を持たないので、今ある活力をどう維持させるかなどという後ろ向きの議論に終始している。 自信が国家になく、そこの人間にとってもさらに自信が失われるときに、国家はさらに自信のない外交を展開する。 物分かりがいいというと聞こえがいいが、要するに自己主張できない、自信のない、国家である。 さらに人間と国家のアナロジーを考える。 人間は、物を疑似人間的存在として認識するときに強く感じることができる。だから人間は神を人間の似姿でとらえ、星を人間の似姿でとらえ、動物に人間の似姿を感じた。そのほうが親近感を持って実在をより感じることができるからである。ミッキーマウスは人間の似姿である。また会社などの組織を法人、つまり法律によって作られた人格として考えるのも同じである。 時に国家を我々が最も人間的存在として認識するのは、外交においてである。 我々は我々の属する日本を外交的な場面において、一つの人格的存在として認識する。小学校の学級ではないが、いじめっ子か、いじめられっこか、リーダー格の子供か、いつも番長の顔色ばかりうかがっている子供か、という具合に人格的存在として自分の国を認識する。 例えば、世界最強の国家である米国は、クラスのガキ大将であり、日本は、自分の意見を言えない子供と同じである。 この場合、勿論その時にリーダーの国家に居住する国民が最も名誉心を充足する。つまり国家ブランドとしては最高の位置にある。だから歴史上の国々は、その時代のリーダーたらんとし、また最強の国家たらんとしたのである。また豊かな国家というのも羨望の対象であるので、そういう国家を目指すこともあった。 今日の日本は、そうした観点から言って、精神の充実を精神的分野から直接的に充足するにはあまりにもその外交が、主体性、誇りを失っている。 そして、こうした精神のテンションは、経済の活性化によって生まれることもあるが、今日の状況を考えると、むしろ外交における毅然たる行動によって精神的な充実そのものを取り戻すべきであろうと考える。 私が、「外交は内政を凌駕する」といったのは、精神的にはこうした意味からである。
今日の太平洋における多国籍のパートナーシップについては、基本原則としては参加をするべきと考える。 その理由は、これが単なる貿易だけにとどまらず、また関税撤廃問題だけにとどまらないで、ほかの人的交流や、工業品の規格、金融の規格,知的所有権などについての枠組みを決める大きなインパクトを持つからである。 そもそも、私は、日本があらゆる分野における「ルール作り」に参加できていないことを大きな問題であると考えてきた。金融における自己資本比率に関する国際間の取り決めについても、日本はほとんど自己主張することもなく、結果として、国内の凄まじい貸しはがし、中小企業の業態の悪化等を招来した。 つまり「ルール作り」に参加しない弊害がここにある。 かつて、日本の半導体メーカーはDRAM市場で80%以上の占有率を持っていたといわれるが、この分野における標準化が進んだ結果、その占有率は激減した。勿論、こうした標準化は、法律によるものと競争によって事実上そうなる場合がある。前者の事例としては、国際標準化機構ISOであるとか日本工業規格JISなどがある。こうした規格が確定した時に、それ以外のものは排除されることが多い。また、大手企業が連合して、例えば、蛍光灯の規格を作ると、その規格によって建築事務所などが規格外の商品を使わなくなる可能性などの排除の原理が稼働する場合がある。また事実上の標準化は、市場における競争から生まれる。松下電器とソニーとのそれぞれのビデオテープの規格について、VHSとベータとの戦いは、こうした事実上の標準化を争った事例といえるであろう。結果として前者が勝ち残り、後者の規格によるビデオは事実上消滅させられた。 DRAM市場における標準化によって日本は占有率を失ったと書いたが、これは世界における法律による標準化ではなく、競争による標準化でもなく、アメリカと韓国などが国家の戦略があったかなかったかは疑問であるが、結果としてそれぞれの規格を標準化することによって、事実上の法律による規格統一に等しい戦略的企業レベルにおける標準化戦略のもとに行った行為といえる。こうしたルール作りについて、今回のTPPは、工業規格、金融規格、法律と弁護士の在り方や、知的所有権において行うという。そこに日本の有利さ、メリットを入れるべきという考え方は正論である。 ドイツは、その工業規格をEU全体の工業規格とすることに成功し大きなアドバンテッジを確立したということを聞いたことがある。つまりドイツの規格がEUの規格となったのである。 例えば、言語の世界規格は、今日では英語である。アメリカ人のような生まれつき英語を話す人間は英語を特に学習する必要がない。生まれついての言語であるからだ。日本人は、英語を話すために、1000時間以上費やして学習する。1時間1000円とすれば100万円の出費である。そのために学校教育の過程でどれだけの費用が掛かっているのか。 つまり自国の言葉や規格が世界の標準的規格となるということは、大変なメリットである。その規格について、今決めようとしているのである。 そのルール作りに参加することの国益上のメリットは計り知れない。 私は、「外交は内政を凌駕する」という論文の中で、外交上のルール作りこそが、決定的国益成就の要素であると主張した。 例えば、銀行の自己資本比率についてのバーゼルの世界統一規格が、世界の金融機関の上位を占めている日本の銀行のパワーを奪うことにいかに効果があったかを考えるまでもない。少なくとも、国際的金融機関については8%の自己資本比率を達成し、各国国内の金融機関においては4%を達成するという規格は、欧米の金融機関に比べて自己資本比率の低かった日本の金融機関を直撃した。ちょうどバブルがはじけて、資産価値の下落の時と同時であったこともマイナスに作用して、多くの銀行が貸しはがしをして自己資本比率を守ろうとした。その結果多くの中小企業が倒産し破たんした。さらにそのことによって連鎖的に中小企業間での手形が、単なる紙切れとなったりして、営業そのものにおいては順調な企業も連鎖的に破たんの危機にいたった。 そもそも自己資本比率についても、日本国内については、アメリカなどとは違い、文化的、精神的土壌が極めて同一の日本国内においては、4%の必要があったのかは多くの専門家が疑問を呈しているところである。少なくともアメリカにおいては、その人種や、その文化において、きわめて多様であり、その多様さゆえに、商売においては、危険に対するリスクをヘッジするべきだということは理解できる。日本も将来、多国籍的文化の国家となる運命にあるかもしれないが、そのために始めからアメリカ並みの自己資本比率を国内金融機関で達成する必要があったのか、さらにその結果、善良な企業がおびただしく不幸な運命になる必然性があったのかは疑問である。私は当初は3%くらいから初めて国内金融については緩やかな目標設定でもよかったと考える。 あの時にバーゼルで日本の代表団がこうした国益を主張し、国内金融機関の自己資本比率について、準備期間を設定し、国内産業の準備期間を獲得していたら今日の不況はこれほど深刻でなかったであろう。 スポーツの世界では、スキーのジャンプ競技で、日本勢が優勝をするようになると、そのスキーの板と選手の間に一定のルールを作られてしまって、日本人が優勝できなくなったということも言われる。スキー複合でも、ジャンプと滑ることの特典の比率の変化が日本勢に不利になったという証言がある。 国技である柔道も、そのルールが大幅に日本以外の国家の主導のもとに変更され、日本人は優勝できなくなりつつある。 水泳の背泳ぎも、はじめに潜水してスタートするにおいてその潜水に制限が加わり、日本人は上位にかつてよりくいこみづらくなったという。 経済の分野でも、金融においても、スポーツにおいても、またほかの分野においても、ルールを変えて勝利することが最高の戦略として、世界の中で通用してしまっている。 次に、この新しいパートナーシップが、世界のルール作りにおいて、メインストリームとなる可能性があることである。今日の社会はグローバリズムを模索する社会であり、そうした中で、世界標準をとることは国益上極めて重大なことである。 特に、従来のグローバリズムへの基盤を作る上での様々な構想の中で、このTPPは、ほかの構想を超えて最強のグローバリズム構築の世界観を提唱する可能性がある。 どの方式とどのグループが世界共通のグローバルスタンダードを作るグループかということが重要であり、どこのグロ−バリズム構築のグループがメインストリームになるかを見極めることは重要である。この新しい試みは、ほかのものよりもより強力にその可能性を持つと考えられる。 つまりこのTPPは、今までのアジアにおける様々な枠組みを打ち破り、アジア全体の大きな、文化と経済のルールを構築する可能性がある。 少なくともアメリカが参加し、日本が参加した段階で、ここで決められたルールは、バーゼルの金融における規格にも影響を与えるであろう。 さらに、10年後に例外規定が実際にないことになるのか、否かは議論の向こうの話である。その議論に参加することが、まずは重要である。 これは第二の開国であるというような議論ではなく、世界標準基準をアジア太平洋地域の経済風土や文化風土から作ろうとする絶好のチャンスであり、世界のルール作りに一歩出遅れてきた日本にとって最大のチャンスである。 ただし重要なことは、日本がしっかりとした世界観を持って、戦略的に国益を主張するといことである。そして、インドやブラジルといった、親日的国家を太平洋という枠組みから脱皮させていって、最終的にこの枠組みに入れて主導権をとるくらいの戦略性と野心を抱くべきであろう。そうした戦略をとりわけ親日的なベトナムなどと連携して行うこととなれば、新しい時代に日本の国益と名誉は高まるであろう。 勿論、国内の農業の保護等も必要であろう。そのことは所得補償などを効果的に使い、農協などの縛りをなくして農業に自発的企業家精神を復活させることなどを通じて策を講じることができるのではないであろうか。従来の延長ではない新しい農業政策をある種の規制緩和を通じて行うことはできるであろう。 少なくともこのチャンスを日本活性化の機会としてとらえたいものである。