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2010年02月

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外国人地方参政権についての所感 2010.2.27[Sat]

 予算委員会が多忙で、この日記の更新も2ヶ月ぶりぐらいになってしまった。遅くなってしまったが、この間、多くの方からお問い合わせをいただいた外国人地方参政権問題に対する所感を改めて示しておきたい。

 日本に住む外国人に対して日本人と同様に、地方における参政権を付与せよとの声が、国会議員を含め一部の人々の間でかまびすしい。その推進派の理由としてよく言われることが、彼らもまた納税者として、税金を支払っているのであるから、当然、税金の使い道を決める政治にも関与する権利があるのだという。はたして参政権は納税の対価たりえるのだろうか。否、この意見は間違いである。なぜならば税金を支払う対価は、その人の享受する、行政サービスにある。つまり日本に住む外国籍の人々は、上下水道、道路をはじめ、夜道を照らす街路灯などさまざまな社会基盤を日本人同様に利用し、またそのほかのさまざまな行政による公共サービスを享受している。その有形無形の恩恵が存在する限りにおいては、納税に対する政府、自治体の債務は履行されているのだ。
 例えば、民主党政権においてその目玉政策である子供手当を日本国籍以外の外国人にも支給するのかという議論がなされている。こうしたことの制度的整合性はさらに議論の必要があるとは思われるが、少なくとも、行政サービスと税金の支払いが、原則として対価の関係にあるといえよう。
 しかし、国民の政治に参加する権利というものは、納税の代償などというレベルのものとは基本的に違う切り口から考えられるべきものである。また地方政治というものも、国の政治との関係という点において、全く独立しているものではない。国家の安全保障という面からも、国家のエネルギー政策という観点からも、地方政治は国の政治と直結をしている。

 エドモンド・バークというイギリスの思想家が「政治を行う、政治に参加するということは、現在の人々によってだけではなく、過去の人々と未来の人々との共同作業としての政治である」と述べている。つまりその地域の歴史伝統文化を、過去と未来に対する責任を持って過去その地域に住み、様々な歴史を積み上げてきた人たちと、未来にそこに生活をおこなう、ともに過去に対して責任を持つ子孫との連帯意識を共有するということこそ、政治に参加するうえでの大きな背景と考える。経済的要素だけではない、こうした情念ともいえる過去と現在と未来をつなぐ伝統と文化と連帯があったからこそ、人間は、自分たちの祖国やその文化を自らの血を流して守ってきたのである。
 この歴史的文化的連帯感こそが、政治の依拠するところではないだろうか。極端な事例であるが戦争になったときに、その国家のために戦う用意があるかという問いはこの観点からなされるのである。そして、多くの近代国家において、兵役は国民の義務と考えられてきたのである。
 今、外国人の地方参政権を認めている国が北欧を中心に存在する。そのことは、ヨーロッパの国々において、とりわけEU参加の国々の中において、歴史的背景や、今日の経済的連携、社会的連携の深まりの中で、双方に地方参政権を認める動きが発生していることはこの観点からも理解できる。そこには民主主義という共通の政治システムがあり、さらにはEUという国家を超える新しい社会制度や経済的連帯の現実化されつつある姿がある。また、古代から考えると、ゴート族の民族移動、ほかのゲルマン民族の移動など、民族的にもヨーロッパ地域は一体感を持つ民族移動の背景が地域的に存在することは、それぞれの地域にとって、相互の歴史に相互の国民が深く関与していたことを意味する。さらに文化的にも古代ローマ帝国やフランク王国や、神聖ローマ帝国などを含め、またキリスト教など幅広い日常の生活に根差した価値観を含め、極めて強い文化的共有性をもつに至った歴史が存在することなどがある。
 この点に関して言えば、我が国及び北東アジアはEU圏とは、その地政学的な要件を含め、はるかに異なった環境にあると考えられる。
 まず、地政学的な連続性はそこにはない。従って地政学的に接続をしているという一体感を過去の歴史においても有していない。ヨーロッパにおけるような、歴史時代に書かれるような民族移動は存在しない。確かに、漢字を使うということが共通要素としてあげられる。また、官僚制度などにおける中国からの伝播といったものをあげることも可能だ。しかし、中国の王朝交代と日本の天皇制との相違点は、その政治思想の面からも、井沢元彦氏の著書による迄もなく極めて異なっている。またその日本の死生観や、アニミズム的発想は、きわめて独創的なものである。従って、ハンチントン教授の「文明の衝突」においても、日本文化はほかの北東アジアの文化とはあえて別に独立した、世界の8つの大きな文化のくくりの一つに数えられているのである。
 また、民主主義体制という点においても、日本はアジア地域最大の人口と領土と工業生産高を誇る中国などとは全く異なった体制の国家である。しかも、中国は様々な領土問題や資源問題において近隣諸国との間に高い緊張が存在する覇権国家である。また、朝鮮半島の二つの国家間においても、海上で銃撃戦がなされたのはごく最近のことでもあり、政治的一体性や共有性において、相互主義に基づく参政権の付与に多くの日本人が不安を感じるのは当然である。一方、EU内の国家においてはそうした違和感は日本ほど強く存在しないのであろう。

 こうした日本をとりまく環境を踏まえ、政治というものがエドモンド・バークの示唆し、私が共感する、「今の我々だけが行うものではなく、過去の私たちの先祖と未来の子孫との共同作業である」と考えるときに、少なくとも今の市民生活の利便性や、今の社会の在り方のみを考えるという観点だけから地方参政権の議論をすることは、到底認められるものとはいえない。
 なぜならば、地方政治においてもその地方の伝統や文化を考えた時には、その地方の過去、未来との連帯の中で政治は語られるべきであるし、地方の政治の判断や決断が、当然国政の判断や決断に対して大きな影響力を持つことはありうるからである。
 その土地に愛着をもち、そこの歴史や過去の文化に対して造詣深く、隣人との強い連帯感を抱く者であっても、それがたとえ地方政治に限定されるものであったとしても、参政権を認めるには、当然、国籍を取得することは最低限必要である。
 また、過去未来の社会とそこに住む人間と連帯を持つということは、当然国籍を取得する熱意が存在するほど強いものであろうし、またその熱意の証を国家は要求する。


 
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