今後の展望を語る場合に、今日までの総括が必要である。従来の日本の政治は官僚任せであると言われてきた。官僚依存症とも言われてきた。それは、優秀な官僚に政治行政を任せておけば大丈夫と言う発想の元の官僚主体政治が行われていたと言うことである。 別の表現を借りれば、日本と言うトラックの運転席には、本来国民に選ばれた政治家が乗るべきなのに、其の政治家の手足となって動くはずの官僚が座っていたと言われていたのである。しかし、それが間違いであった。つまり運転席には、官僚も乗っていなかった。つまり誰もそこに乗っていない暴走するトラックだったのである。 それでもトラックが走り続けたのは、トラックそのものが優秀だったからと言えるかもしれない。つまり、日本人そのものが優秀だったからであろう。 私は、誰もコントロールタワーに乗っていなかった証拠として次のことを示したい。 つまり、もし仮に、官僚が、其の官僚天国を永続したいと考えれば、これほど国民に分かりやすい形で失政を行うことはありえなかったといえる。 まず、国家予算の10倍を超えるような地方と国の借金の存在は、いかに財政計画が無かったかを明らかにする。勿論地方と国といっても地歩言うは国の言いなりであるので、結果として700兆とも800兆とも言われる借金は、国が作ったものと言える。この借金は財政破綻をすべての国民に分かりやすく示唆し国民の政治行政に対する怒りを生じさせた。 もし、官僚が行政に対するガバナビリテーを持っていたならば、そうした馬鹿げた失点を作るはずが無い。 次に、国家の安全保障上重要な食糧安全保障である。日本の自給率は、カロリーベースで、この30年の間に70%から40%に下落している。これほど分かりやすい農業における失政はない。 また、年金の破綻や、医療崩壊などは、深刻な社会問題を引き起こしている。子供の出産と言うことすら安心して出来ないなど、多くの国民は、未来に不安を感じ、現状に怒りを覚えている。 もし仮に、官僚が運転席に座り、日本と言う車のガバナビリテーつまり統治権力を持っていたならば、こうした誰もが認識する失政をして、官僚天国を自ら崩壊させることはしないであろう。もっと言うならば、国民の怒りが沸点に達する直前で寸止めの放漫経営や失政を行うであろう。 つまりそうしたほうが悪く言えば甘い汁を永続的に吸えるし、怒りを沸点に達させると言うことは、官僚のすべての特権を失わしめることにつながるからである。 事実、彼らの天下り先も公益法人も国民の怒りの強い対象になっている。これは、彼ら自信が日本の国家の統治をしていなかったことを証左である。 つまり政治家は官僚依存症で官僚に任せ、官僚自身は、誰もそこに座っていなかったと言う状況である。 アメリカの経済学者のチャンドラージュニアが、経営の基本的法則を発見した。それは、近代的経営においては、当然の法則とされるに至った。つまり、長期的な意思決定と、日常的業務的意思決定の区別である。この二つを一緒くたにして意思決定を行っている企業は長続きしない。長期的意思決定と短期的業務的意思決定、つまり戦略的意思決定と戦術的意思決定を明快に区分して意思決定している企業が生命力を維持していると言うのが、チャンドラージュニアの発見した法則であった。 官僚組織において、この戦略的意思決定が行われていなかったことは、俗に言うシーリング制という前年の予算を前提に積み上げる予算措置が当然視されていたことで明快である。シーリング性は、前年の予算を前提に組み立てる予算措置である。つまり其の意思決定は、前年の意思決定を前提とする。其の前年の意思決定は更に其の前年の意思決定を前提とする。こうして、其の意思決定は過去の意思決定の延長線上ということで、仮に何かを指摘されても、新たな意思決定というものは、全体のわずかの部分でしかないと言う、責任を取らなくていい体制が生まれることとなる。別の表現を借りるならば、意思決定は、前年、更に其の昔の意思決定に依拠していて、目立たない保護色の中にあるといえる。これでは、責任の追及の仕様が無い。 これは、チャンドラージュニアが言うところの、全くもって長期的戦略的意思決定が欠如している状態といえる。 そもそも、今の官庁で、国土交通省のことを厚生労働省が評価をすることは出来ない。総務省のことを環境省が評価することは出来ない。つまり、国家全体についての、長期的意思決定はそれぞれの縦割りの中で、相互評価を下すことは出来ない。それどころか、一つの省内においてすら、異なった部や課のことを別の部や課が評価を下すことが出来ないほどにそれぞれの司意識は高い。つまり、それぞれがそれぞれに対して不可侵であることによってお互いが尊重されているのである。 しかしこのことこそ、チャンドラージュニアが言った、最も失敗する組織の典型である。そこには、長期的意思決定と其の総合的意思決定が存在しないのである。 確かに、全体を鳥瞰して、長期ビジョンを作るところとして内閣の閣議がある。しかし其の閣議自体が、事前に行われている事務次官会議の単なる確認のセレモニーであるとしたならば、全くもってこうした戦略的意思決定が為されていないことになる。 事実、わが国における国民が怒りを感じた、財源問題、食糧問題、医療崩壊問題などについて、なんら有効な手立てを大規模な予算を使いながら出来なかった、政府の統治能力の無さは、要するに戦略的意思決定をどこも行わず、政治行政において、業務的意思決定権者はいたが、政治的な真の意思決定権者は存在しなかったことを意味する。 今回、我々は官僚主導に変わって政治主導の日本の行政を確立すると言った。しかしここまで述べてきたように、官僚主導の政治でもなく、誰も主導していない、意思決定なき日本の政治が長い間行われてきたことを指摘したい。つまり意思を持つ政治がはじめて始まるということである。 そして我々は其の意思を持つ政治の前線基地として、国家戦略局と行政刷新会議を設置する。 前者は国家的命題である、少子化問題について、食糧自給率の向上についてなどを優先順位を確定して、各省庁に対する司令塔の役割、つまり政治的意思決定の主体者としての役割を果たす部署である。 そして行政刷新会議は、常に無駄を探し暴き続ける部署として考えられる。 従来は会計検査院がそうした無駄を省く機能を担ってきた。しかし、それが極めて人員的理由も含めて不十分であったことは周知の事実である。しかも其の無駄の指摘は、極めて事務的なものにとどまる。例えばそこには車が5台配属されているが、実際は2台が機能していなくて無駄であるとか言う具合である。つまり3台の車があれば十分だと会計検査院が指摘をするわけだが、民間的発想であれば、其の3台も2台で十分であると言うことにもなるレベルの話である。 これに対して行政刷新会議は、事業について無駄な事業と言うものを指摘し廃止する。つまりアニメの殿堂はやる必要が無いとか言う判断をするのである。 従来は、すでに述べたように、それぞれの省庁は、他の省庁の事業について判断することは出来なかった。 つまり環境相が国土交通省の事業を判断できずに、また厚生労働省が、総務省の事業を判断できないようなものである。 事業に優劣をつけて判断すると言うことは、国民の目線に立った審判の存在を必要とする。 行政刷新会議は、そうした事業ごとの優劣をつけて予算を捻出するし、永続的にあたかもグレイハウンド犬が獲物を敏捷に捜し求めるように、無駄を探していくのである。 勿論、最初は官製談合の20%増しの事業費の削減や随意契約の30%増しを徹底的に洗うということから始まるかもしれないが、永遠に無駄を優先順位を確認する作業を行う部隊となろう。 しかし、ここで無駄とは何か・優先順位とは何かを議論していく必要がある。 つまり、クウェートのように石油収入が無尽蔵な国では、教育費も医療費も無料に出来るが、わが国はそれが出来ないからである。 憲法には、文化的生活を行う権利を国民は持つと言う。この権利はどのような生活を意味するのか、 トイレで、水洗トイレは普及している。それでは水洗トイレを使うことは文化的生活であり、それを使えない国民は文化的生活を行っていないと言われるのか。では、水洗トイレが生まれる前に生活をしていた国民はすべて憲法によって守られるべきものを守ってもらえていなかったと言うのか。 今は単なる水洗ではなく、トイレットペーパーの代わりに水で洗浄する仕組みとなっている。これを使っていない国民は憲法に保障されている文化的生活をしていないと言えるのか。そうすると便所と言う発想から行くと、江戸時代の国民はすべて不幸な国民となってしまう。 もし、明治時代の前半の生活で、国民が文化的生活をしていると言うならば、今の予算はすべての分野で大幅に削減されるであろう。しかし、今の日本人の中に百人に一人くらいは、其の不便な明治の時代に生きていたいと思う人間がいるであろう。 つまり、憲法が定めている文化的生活は国民の主観に大いに依拠しているのである。 過日、代々木公園の失業者に会った。彼はかつては家庭もあったが今は天涯孤独であるという。そして江戸時代には俺みたいな天涯孤独に代々木公園で疎外感を味わっている人間は少なかったのではないかと語っていた。事実は分からない。しかし、今日よりも社会のコミュニティは江戸時代の方が強く、十分に存在しているかもしれない。ある調査によると、現代人の精神的病は10人に3人くらいいると言われている。私の知人も、大手商社マンであるが、引きこもりで今自宅療養中である。 幸せと文化的生活の相関性が十分に語られないままに、文化的生活と称して予算がどんどんと使われることも再検討していく必要があろう。 また、少子化について、当然それを回避しようとして、我々は子供手当てを考えている。北欧の成功事例を参考にしているのである。しかし議論をしていくと、なぜ5000万人に人口が減った日本ではいけないのかと真面目に質問されることがある。つまり国家のあり方の議論がされないで、国民のコンセンサスが得られないままで少子化対策が行われていると彼は言うのである。 私は、むしろこうした少子化のプロセス自体が、社会のマイナス要素になるといって議論をしたのだが、確かに、人口がわが国においてどれくらいが適正かという本質的議論は為されていない。 財源論はこうした議論を踏まえた上で行われ、税金を使うについての優先順位を明快にする必要がある。 いささか話が哲学的になってきたが、こうした本質論を含め、わが国は戦略的意思決定を新たな二つの部署を中心にして、行うべきであろう。