現下の不況を考えるに其の克服の手法としていくつかのことが考えられる。 まず、国家と経済の関係である。日本における小泉元総理主導のさまざまな改革も、そのお手本となったアメリカにおける経済の国家からの自由放任とも言える体制が、今、大きな批判にさらされようとしている。すでに米国のみならず、わが国においても反響の高い「暴走する資本主義」という書物を見るまでもなく、こうした市場原理主義、徹底した経済の国家からの独立と自己責任は、米国における国家資本の注入と言うことを含め、かなり修正やら否定をされている。 先日、私のインド人の友人であるビバウ氏に私の知人の発明家を紹介した。世界でも初めての、ある特殊なネジを彼が発明して、私のところに持ち込んできた。其のネジの用途として、特に、今日のインドにおける世界でも類を見ない大規模な鉄道事業のレール敷設において、彼の画期的な発明が大きく貢献するであろうと言う予測のもと、彼をビバウ氏に紹介したのである。勿論、其の発明が大きな実社会における可能性があることをビバウ氏は直感した。しかし、私はビバウ氏が発明家に対して語った以下の話が重要と思われた。 つまり、世の中に100の素晴らしい発明があるとしたならば、其の中で実用化にこぎつけられるのはせいぜい一つぐらいであろう。次に、100の実用化された発明があるとすれば、其の中で、社会に認知され大きな影響を持つ発明は、1つぐらいであろう。と。 其のときに必ず国家が其の実用化と社会的認知に関与すると考えることは現実的である。 例えば、自動車の発明が画期的であったとしても、其の自動車が疾走できる凸凹でない道路が国家によって作られなければ、自動車がこれだけ社会に認知されることはなかったであろう。 また、経済の発展によって、燃料である石油が採掘され、鉄鉱石が十分に採掘供給され、さらにその精錬技術が発展しなければ、自動車のアイデアだけでは今日の自動車産業の興隆もありえなかったであろう。 今日の社会でコンピューターの存在やインターネットと言うものの存在は当然と考えられる。しかし、光ファイバー網の整備などが、こうした情報革命の基盤にあるのは当然である。 GPSシステムで自動車の現状の場所を確認するためには、人工衛星が不可欠である。 つまりすべての国家から離れたような企業活動にも、実は国家の関与が存在するのである。 こうしたことを踏まえ、国家が求める方向の発明をすることが、其の発明がより社会によって求められ実現される可能性を高めることになる。徒労の発明をするよりも、はじめから求められる発明をすることが大事であると言うことをビバウ氏は語ったのである。 確かに、世界中の規模の大きな産業は、国家の関与がどこかに必ず存在していると言えよう。 それは、産業に限ったことではなく、世界的な宗教についても云える。キリスト教の発展は、世界帝国であったローマ帝国が、コンスタンチヌス帝のときにそれを国教としてから、其の権威が確立をし、絶対的な宗教としての地位を築いたのである。 塩野七生さんによると、従来は混浴などが主流であったローマ人の大好きであった浴場文化が、こうした混浴は淫らであると言うような、キリスト教的認識が広まるにつれて寂れていったという。 中国でも、儒教が漢帝国によって国教と定められてから、墨子の教えや、管子の教えが亜流の発想と言うような認識になっていった。 むしろ、儒教以前の管子の発想などは、極めて自由であり、ある意味で今日的ですらある。しかし、国教としての儒教の前に、邪教的な扱いを受けることとなる。 つまり、産業でも宗教でも学問でもそこに国家の絶大な影響は存在するのである。国家が前面に立つかどうかはそのときの状況によって異なるが、国家は常に大きな影響を持っている。特に、近代国家の植民地獲得競争の時代などになると国家は前面に出て行く。 また後発の国家が、先発の国家や社会に追いつこうとする時には、其の国家は一丸となって国民のエネルギーを束ね集中しようとする。 明治時代、日本は富国強兵策による急速な近代化路線を採用した。それは当時においては日本が、欧米列強の植民地となる運命を避けるために取り得た、唯一無比の方策であり、国家目標であった。 翻って今日、私たちが今ここにある危機を乗り越えるために、国家がある程度前面に立って国民をリードしていくことが、国民から求められていると思う。 国家が、産業のあり方についても、一定の方向を示し指導的立場を堅持するべきである。同時に、国家が目指すべき国家像とグランドデザインを示すべきである。 そして、其の国家が示すべきグランドデザインは、「海洋国家=日本」であろうと考える。もとより、明治維新のときには、西洋の列強に追いつくと言う国家戦略があり、西洋列強の植民地になってはならないと言う使命感があった。 つまり、富国強兵そのものが、国家のグランドデザインであった。同時にそれは、単に日本の製造業を伸ばし、国民の地位を向上させると言う物質的欲望にとどまらず、国家と国民の精神的欲望ともなった。つまり、日本は他の東洋の国家が、すべて西洋の植民地となる中で独立を保持し、西洋列強と対峙する近代国家となるというロマンであった。 政治は、現実的な国民の生活を守り、福祉社会を守るだけではなく、国民に夢を与えるべきであると言うことはしばしば言われる。 今の日本における夢とは何であろう。私は、それが、現実的国際社会の進む方向性を考えれば、海洋国家=日本と言う構想であると考える。 世界は国連の海洋法条約によって、排他的経済水域200カイリ時代となっている。しかも、大陸棚との関連で国際社会によって認められれば、350カイリまで其の延伸は可能である。そこに夥しい地下資源があり、海洋資源がある。わが国は陸地面積だけで行くと、37面平方キロメートルで、世界の中では大国ではない。しかし海洋国家として200カイリ、もしくは350カイリまで考えると、世界屈指の大国であり、地球上で大きなリーダーシップを発揮する可能性がある。 勿論、そのためには、海における国際社会の中でのさまざまなリーダーシップが必要となるし、無人島における防衛システムなどの構築が必要となる。 またメタンハイドレードなどについても、其の開発の実績が問われることとなろう。 しかし、「海洋国家=日本」と言う響きと、其の地表に置ける新しい国土の存在は、我々に大きなロマンを掻き立てることになろう。 この不況時にこそ、現実的な不況に対する国家主導の試みと同時に、こうした国家の夢のあるグランドデザインについて、政治家は大いに語るべきと考える。 国家は国民のためにもっと、前面に出る時代なのである。