国会が閉会し、小泉内閣が再出発した。また、北東アジアを巡る安全保障のあり方を将来的に規定する六カ国協議と日朝の実務者協議が終了した。私は、かねてから人格ある組織こそ活力のある組織であり、無人格の組織は、無責任の組織となってしまうと表明してきた。法律の世界では、禁治産者という概念がある。この概念は、法律的な権利、義務遂行能力を持つことが出来ない者を意味する。今日の日本は、果たして人格ある組織であるかということが、政治家としての私が考える最大の関心事である。その場合、外交というテーマは、国家がまさしく人格的存在として国民の眼前に表出する事柄である。弱腰外交といわれたり、強引な外交とかいう修辞を用いて外交を表現すること自体が、国民やマスメディアが外交を人格的イメージで捉えている証左である。私は、この国民の目に映る人格的存在としての日本が「自信満々の人格」か、「自信を全く持っていない人格」か、あるいは「積極的人格」か「引きこもり的人格」か等々ということが国民の意識に対して大きな影響を与えることを危惧するものである。かつて古代ギリシャの哲学者プラトンは「国家は大文字の個人である」と国家論の中で説いているが、実に、日本という国家が自信満々な人格的存在として外交において表出していることこそ、国民が自信を持つ為のひとつの前提となるであろう。しかしながら、最近の日本の青少年が自信を持てないでいるという国際比較の数値も明らかになってきている。毅然たる外交を展開するメリットは、通常の意味における国益という観点からのみならず、教育という観点からも考察されるべきである。昨今の子供たちの無気力やNEETといった現象、更には自信の無さなどは、その原因が単に教育現場にあるだけではなく、今日の日本外交の「誇り」の無さ、「自信」の無さに根ざしているといえよう。新しい小泉政権は、北東アジア安定のための六カ国協議や日朝実務者協議において、断固たる意思を明らかにすることで、人格的存在である日本が、誇り高い、自信を持つ人格であることを国民に銘記させなければならない。それが、政治のもっとも重大な使命である。
内閣があたらしく発足をした。そうした現況の中で、今一度述べたい。私は拉致問題は日本における主権問題と人権問題の根幹にかかわる極めて重大な課題と認識している。少なくとも、国家は、その基本的使命として、国民ひとりひとりの生命、自由、財産を守ることが上げられる。 他国からの国家的テロによって、これを守りきることが出来なかったことは、日本の国の人権問題と主権問題が甚だしく侵されたことを意味する。すでに侵された人権と主権に関しては、速やかにその解決に取り組むことが必要である。 つまり、拉致問題の解決に国を挙げて取り組むことは、何より国家の至上命題である。しかしながら、すでにこの「荒野の叫び」にも書いたように、小泉内閣においては、この問題の解決のための関係会議を平成15年以来、丸3年近く、事務的な専門幹事会を昨年12月の横田めぐみさんニセ遺骨問題以来まったく開いていない。 私は小泉総理が主権、人権問題に関心がないというよりは、拉致問題がそのような重要な問題であるということが理解できないのではないかと考えている。 小泉総理の理解力の無さは領土問題である竹島問題などにも散見される。 私は、今日における小泉総理のリーダーシップが、かつてのいかなる総理よりも強くなっている中において、彼が領土問題の本質的意味や拉致問題の本質的な意義を理解し得ない現状をなにより憂うる一人である。 この、拉致や領土問題が、国家の活力や夢やその国の若者の自信など、様々な側面で大きなインパクトを持つということを銘記しながら、とりわけ新たな閣僚の方々には正しい判断と行動を迫っていきたいと思う。